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2006 10,31 22:41 |
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前回の記事「『手紙』・東野圭吾」を『私書箱』というカテゴリに分類したのは、あの記事が、推敲も訂正もろくにしていない未完成な文章だった為である。 文章の上辺だけで物語の輪郭をなぞり「本当の「罪の重さ」はどの部分のことを言うのだろう・生きていくことで償いになるのか」と読者に問いかけておきながら、自分の立場はまだ明確にしていない、そんな文だ。 書くことに慣れている人が読めば、前回のそれは、記事としてあげるには不十分な出来だと分かるだろう。 。。。ではなぜあれを上げたのか。 それは、「この続きはまた今度」とつなぐことによって、次回までに自分自身に「罪の重さ」を考えさせる、そのいい契機が与えられるだろうと思ったからだ。 さて、では、あれから数日。 「罪の重さ」をわたしはどのくらい考えたのか。 正直、毎日毎日、駅への行き帰りや買い物の途中に、自身を物語の主人公に置き換えてみたりもしたけれど、全然結論らしい結論など出ていないのだ。 もしもわたしの姉が人を殺めたとして、そのせいでわたしが世間から白い目で見られたとしたら。。。 おそらくわたしは、それだけの過ちを犯した姉を許すことは出来ないだろう。 いくらわたしのため(わたしを大学に行かせるため)にその罪を犯したのだとしても、それでもわたしは、姉の一瞬の気の迷いを、それによって自らを取り返しのつかない過去へと陥れてしまったその愚行を、決して許したり受け容れたりはしないだろう。 たったふたりの家族なのだから、許すべきだという人もいるかもしれない。(*この物語の主人公には父も母もいないのでそれを例にとって「たったふたりの家族」と例えた。) けれど、たったふたりの家族だからこそ、どちらかひとりが欠け、もうひとりに悲しい想いをさせることなどあってはならないのだと思う。 親がなく、親戚もいないのなら、力を合わせて生きていくしかないのだから、その現実を受け入れ、身分不相応な願いは諦め、まず何よりも今の生活を安定させることを考えるべきではなかったのか。 ***** 。。。この「手紙(東野圭吾・著)」の恐ろしいところは、「手紙」を読んだ人間を小説の世界にとことんまで引きずりこみ、決して安易に現実には戻してくれないところだと思う。 わたしもそうで、読み終えた日から3日、まだ現実の世界に完全に戻ってはいない。 帰宅し、入浴をし、PCに向かっている時ですら、主人公が必死に生きていく苦しさを思い出し文字を打つ手が止まる。 わたしは上で「たったふたりの兄弟なら助け合うべきだ」と書いたが、実際にこの物語を読んでいる時には、金を盗みに入った兄の心情が手にとるようにわかってしまった。 兄はむしろ、たったふたりの兄弟だからこそ、弟に不憫な想いや苦しい想いはさせたくなかったのだ。 親がいないから大学を諦めるなんて、弟にそんな理不尽な情況を味あわせたくなかったのだ。 その時は、ただ金を盗むだけだと思っていた。 バレずに、いくらかの現金を盗み、誰も傷つけず、その金で弟を大学にやり、ふたりでささやかな幸せをかみ締めたかったのだ。 著作を読んでいるわたしにはその気持ちが良く分かる。 ただ、歯車はほんの僅か狂ってしまった。 その狂いにより、人生は、取り返しの付かないところまで堕ちてしまった。 「この手紙をポストに投函した瞬間から、私は貴方の弟であることを捨てるつもりです。」 たった一人の兄にこんな文章を書かなければならない苦しみを、表現する言葉が果たしてあるだろうか。 本当に、重い、深い、いい小説だと思う。 わずかな時間をぬってでも、寝る時間を少し削ってでも、読む価値のある本だと思う。 結局、3日3晩考えても、この本の世界観を形容する言葉は浮かばなかった。 そしてその事実こそが、この本の価値や他人の人生を奪う罪の重さについてを表しているのだと思う。 PR |
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