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2006 07,23 16:14 |
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たしか、この間の金曜日だと思うのだけど、 24時近くに、NHKで「一期一会」という番組をやっていた。 URLはこちら。→「NHK 一期一会」 この番組は、一般公募で選ばれた若者(25歳以下。)が、 自分の日常では出会うことのない、対極の生活をしている若者にインタビューをし、 それぞれの価値観や生き方の違いを見つめるというものだ。 7月21日の放送では、 大学に通う(おそらく偏差値の高い) キャリア志向の22歳の女性が 10代で「出来ちゃった結婚」をしママになった19歳の女性の家を訪ねて 取材をしていた。 取材の中で、22歳大学生は、19歳ママに対して 「若さも可能性も溢れる貴重な10代の時になぜ結婚に踏み切ったのか。」 「もっとやりたいことをやった方が良かったんじゃないか。」 「例えば、留学とか、キャリアとか、そういったものを追えるのは 限られた時間だけなのに、それを捨ててまで母になる必要があったのか。」 というような質問を立て続けにぶつけていた。 その質問に対し、19歳の女性(プラス、同席していたママ友達)は、 「子供が出来たと分かった時は、生むという選択しかなかった。」 「堕ろすという選択は出来なかった。」という感じの返事をしていた。 すると、22歳の大学生は、 「じゃあ、なぜ後先も考えないで子供が出来るような行為 (つまり、避妊なしの×××)をしたのか。」と切り替えした。 すごく失礼な質問だと思った。 それに対し 少しの間のあと、19歳女性の友達の方が 「その時は、もうこの人以外考えられないというくらい好きだったから。」と答えた。 初日のインタビューが終わった後、22歳の大学生は、 NHKの編集者に対してこんな風に話していた。 「。。。今は彼女達もそれでいいかもしれないけれど、 もっとずっと後になって、10年後、20年後に今ほど若さもなくなって 身体の自由もきかなくなった時に出来ることが限られてきて その時にキャリアを追ったり夢を追ったりしなかったことを どんな風に感じるんだろう。」と。 一方、19歳ママの方は、NHKの編集者に対して、 「どれだけ話しても、平行線だから。。。」と言っていた。 後半、22歳大学生は、19歳ママの父親や母親とも会い、地元のお祭りの取材もし、 たくさんの人に好かれている19歳ママとその子供の様子を目にし、 家族や地元のみんなと協力して子育てをするママの様子に 少し心を動かされたようにも見えた。 最後には、それぞれの価値観を再び話して、 でもお互いに自分の場所で頑張ればいい、というようなまとめで この番組は終わっていた。 わたしがこの番組を最後まで見ていて感じたのは、 「価値観なんて千差万別なのだから、それに対して 「いい」も「悪い」もつけられるものではないだろう。」という想いだった。 事実、22歳大学生の方は、最初から最後まで 「可能性を試せるのは若いうちだけなのに、 その時期に安直に性に溺れて子供を生む結果になって、 大事な時期を潰して愚かだ。」 という価値観で19歳ママを見ていたように、わたしには写った。 対して19歳ママの方は、 「何を言われても、わたしはこの子がいて、今が幸せだから別にいい。」 という態度だった。(ように見えた。) この番組の中で、わたしが一番ひっかかったのは 初日の取材を終えた日に22歳大学生がNHKの記者に発した この言葉だ。↓ 「。。。今は彼女達もそれでいいかもしれないけれど、 もっとずっと後になって、10年後、20年後に今ほど若さもなくなって 身体の自由もきかなくなって、出来ることが限られてきて、 その時に、キャリアを追ったり夢を追ったりしなかったことを どんな風に感じるんだろう。」 。。。これは、つまり、もっと分かりやすく言ってしまえば 「彼女達は、10年後、20年後になって若さがなくなった時に、 10代や20代前半で夢を追わなかったことを後悔すると思う。」 と言っているのとほぼ同じだ。 でも、わたしが俯瞰で見ていて感じたのは、 それは22歳大学生だって同じだろうという想いだ。 10代20代で、一途に溺れるような恋愛や×××の経験をせず、 勉強・勉強でキャリアを追い、その先もしも子供が生める年齢を逃したとしたら そのことをこの大学生は後悔しないのだろうか。 それとも「わたしはキャリアが一番だから、別に恋愛や×××はいい。」 と答えるのだろうか。 もしこの答えが通用するのだとしたら、19歳ママの方だって 「わたしは今、子供がいて幸せだからそれでいい。」と言っているではないか。 つまり、こちらの人から見れば大事に思えるものも、 別の立場にいる人にとっては大事ではないかもしれず それを自分の価値観で決め付けて、「きっと後悔すると思う。」 なんて言うのは驕り以外の何物でもないのだ。 こちらの立場に居れば、勉強や留学は経験出来ても、 子供を持つ幸せと、溺れるような恋や×××は経験出来ない。 19歳ママは30歳の時には子供が中学に行き、若くして子育てから解放されるけれど、 キャリアを追った大学生はその時にもまだひとつの恋愛もせず、 結婚も出来ず、学問を友として一生を終えているかもしれない。 どちらにも、プラスもあればマイナスもある。 今の日本はまだ、親の世代が「普通の幸せ」を望んでいることが多いので、 子供にはいい学校に行ってもらって、でも適当なところでそこそこの結婚をしてほしい という価値観があり、その価値観から少しでも外れると奇異な目で見られることも多いけれど、 わたしは、その人が納得して決めたのなら、10代での出産も、 30代で大学に入りなおすのも、40での初産も、なんだってアリだと思う。 キャリアを追いたい人は追えばいいし、 自分と子供とダンナの幸せを大事にしたいなら それでいいと思う。 それぞれ、目指すものも違えば、 大事にしたいものも違う。 「あなたには大事かもしれないものも、 わたしには大事ではない。」 今回の二人の間には、この感情があって、 それゆえに解り合うことが出来なかったのだと思う。 人は皆、違って当たり前なのだから、 無理に解り合う必要もない。 ただ、あなた自身が大事に思うものを、 今は精一杯大事にすればそれでいいんじゃないか。 学問を究めたいなら、学問の道を。 子供を愛しく思うなら、今は子育てを。 だって、人生は流れていき、価値観は変わるものなのだから。 PR |
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2006 07,16 00:14 |
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先日、代休を取ったので、 真昼間からひとりで「笑っていいとも」を観ていた。 と、その日のコーナーのひとつで 恋人から言われた甘い台詞に点数をつけるようなものがあった。 (柴田理恵と石原良純が演技をしていた。 以下、台詞を思い出して再現。 細かいところは違うかもしれません。) 設定: 場所は喫茶店。 テーブルで向かい合う恋人同士。(←柴田、石原。) 柴田 「ねえ、最近冷たいじゃない?」 石原 「ん?そんなことないよ」 柴田 「えー、絶対冷たいーー!」 石原 「。。。。。(無言。)」 柴田 「○○くん、ホントにあたしのこと好き?」 石原 「。。。好きじゃないよ。」 柴田 「(ショックな顔)」 石原 「オマエのことは、好きじゃなくて、 (数秒の間。) 。。。愛してるんだよ!」 柴田 「(感激してる顔。)」 と、たしかこんな寸劇だった。 この台詞を実際に言われたのは20代前半らしき女の子で、 当時のことを嬉しそうにタモリさんに向かって話していたけれど、 結局その相手とは別れてしまったようなこともちらっと言っていた。 さて。 わたしがこの寸劇を観て思ったこと。 それは、 「そんなに簡単に、愛なんて口に出来るものなんだろうか。」 という疑問だ。 前のblog(←今はほとんどの記事を消去した。)を 見てらした方はお分かりかもしれないけれど、 わたしはこう見えて結構モテるし、 男の人と週末同棲していたこともあるし、 この人↑とは別の人と一緒に暮らしていたこともあるし、 20も年上の人から告白されたことも、付き合っていたこともある。 けれどそんな中で、 そのうちの誰を本気で愛していたかと問われれば、 多分、たったひとり。。。。、 多く見積もっても(笑) ふたりしかいなかったと思う。 何人もの人と付き合ったからと言って それがイコールその人たちを愛していたことになるのかと言われれば それは違うと思う。 こんなことを書いて ズルイ女だと思われるとイヤなので 正直、書くのは随分躊躇したが、 誰かと出会って付き合うこと、 身体を重ねること、それがイコール愛かといえば絶対に違う。 ある人と知り合い、その相手に好感を持って、 その人をもっと知りたいから付き合い始める。 この時点ではそれは「好意」であって愛情ではない。 そして、言葉を交わし、時間を重ね、身体を重ね、 段々と感情が育っていく。 けれど、必ずしも すべての人へのそれが愛情になるわけではなくて 「好意」のまま終わってしまうこともあるし、 好意以上愛情未満で終わることもある。 それなのに、 こんなにも多くの人が「愛してる」「愛してる」と 連発している現実に驚く。 大体、1年やそこら付き合ったくらいで 愛情というのは芽生えるのだろうか。 誰かを本気で好きになって、それを「愛」と認識するまでには もっともっと時間がかかるような気がする。 20歳そこそこの人は 気安く愛だと口にするけれど、 本来愛情というのは時間をかけて築くもので 簡単に芽生えるものでも、 誰かれ構わず口に出来るものでもないと思う。 本当のそれは、 もっと神聖で もっと高貴なものなんじゃないだろうか。 |
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2006 07,06 23:04 |
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(以前、別の場所に載せた記事の焼き直しですが、投稿します。) ***** 先日、コンビニで「とらばーゆ」を立ち読み。 永嶋久子氏の文章が載っていて、あまりにもすばらしかったので10回読んで暗記する。 *永嶋氏は1959年資生堂福岡販売(株)に入社後、1962年第1回海外派遣美容部員として香港に赴任。以後、27年間で世界34ヵ国に及ぶ資生堂の海外進出の立上げ業務に携わってらした偉大なお方。 永嶋氏は「とらばーゆ」のインタビューの中で香港赴任時の思い出などを丁寧に語ってらして、そのお言葉にわたしはひとりコンビニで涙。 記憶を頼りに簡単に綴ると、当時、香港のデパートでは貧富の差が歴然としており高級化粧品と言われるものをたくさん買っていく人々に混じって口紅一本すら買えず、ただじっとそれを眺める若い女の子の姿もあったそう。 そこで永嶋氏は、ある日その女の子に「つけてみるだけでもいいのよ。」と声をかけ、テスターでお化粧をしてあげたところ、彼女は頬を赤らめ「きっとお金をためて買いに来るから。」と返事をし、去っていったのだとか。 それからしばらくの時が経ち、永嶋氏が仕事に忙殺されるようになった頃、その女の子は再びデパートに現れ、約束通りあの口紅を買いに来たらしい。 女の子の手には、しわくちゃの香港ドルが握り締められていて、それを受け取った永嶋氏は胸が一杯になったとおっしゃっていた。 そしてその時に永嶋氏は 「私の仕事には、私が思っている以上の価値がある」と感じたのだそう。 この部分を読んだ時、「すべての仕事がきっとそうだ。」とわたしも思った。 そしてまた、以下のような素敵なお言葉も述べてらしたので引用。 ↓ 『 物事には裏も表もありますから、 同じ仕事をしていても、受け止め方は人それぞれです。 私はいい面を見るよう心がけてきました。 ~~ 私、学生たちの教室に 「打ち倒す者は強いが、起き上がる者はもっと強い」 という言葉を張っているんです。そこらじゅうにペタペタ(笑)。 一度や二度の挫折でダメになるほど人間は弱くない。 つまづいたら、何度でも起き上がればいいんです。 私も起き上がってきました。 何度も何度もね。 』 ***** 。。。去年の始めに、ずっと以前から希望していた業種に転職をし、ここなら長く続けられると確信にも似た想いを持ち、今のところは順調に毎日を過ごしているわたしだけれど、それでも小さな石に足を取られるような出来事や、本社本社と欲が頭をもたげる時も度々ある。 でも、永嶋氏の言葉を読んだ時、自分のあさはかさと欲深さに嫌気が差した。 わたしにはどれほどの実力があるというのか。 毎日、人の何倍努力しているというのか。 人に助けられてここまで来たのに、それをさも実力のように勘違いし、天狗になっていたんじゃないだろうか。 何ごとも、驕(おご)ったら終わりだ。 相変わらず迷ったり、悩んだり、 躓いたりを繰り返してばかりの毎日だけれど それでももう少しこの場所で、努力を続けてみたいと思う。 わたしの仕事にも、きっと わたしが思っている以上の価値があるから。 |
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2006 06,01 22:08 |
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スポーツには、全くと言っていいほど興味がない。。 今、日本中が熱狂しているサッカーすらも殆ど観ていないし、 少し前まではWC開幕がいつなのかも知らないくらいだった。 けれどそんなわたしでも、たった二人、好きなスポーツ選手がいる。 松井秀喜とイチローだ。 ***** もう長いこと、手帳に挟みっぱなしになっている切り抜きがある。 松井秀喜がメジャーへ挑戦することになった数年前、 読売新聞で彼の特集を組んでいた。 その時のインタビューに答えた彼の台詞が、 表題にもある、このことばだった。 「努力したら何が見えるか楽しみだよ。」 「。。。なんてすごいことを言う人なんだろう。」と、 感動したのを覚えている。 彼はもう充分努力をしてきたはずだ。 そしてその結果のメジャーへの切符だったはずだ。 それなのに、この先にまだ努力を重ねるというのか。 この新聞を読んだ当時、 わたしは今ほど納得のいく仕事はしておらず、 毎日に不満を抱えていた。 そしてこのことばを目にした時、そんな自分をとても恥じた。 努力の先には何があるのか。 わたしもそれを見てみたいと思った。 「自分の未来に期待することのたいせつさ。」 それを教えてくれたのが、 この、松井の ことばだった。 |
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2006 05,27 10:00 |
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blogに文章を綴る上で、ひとつだけ絶対に守っている決まりがある。 それは「文字の装飾はしない。」ということだ。 わたしがblogという空間を管理するのは、実はここが初めてではない。 以前にも、別の場所にひっそりと文章を綴っていたことがあった。 けれどわたしはその時も、決して文字の装飾はしなかった。 (*文字の装飾とは、例えば、一部分だけを太字にするとか、 あとは、読んでほしいところに斜体を使うとか、 その他、赤青黄色で色付けをするとか、そういった作業を指すと思ってほしい。) もちろんわたしは、そういったblogを否定するつもりはない。 「書く」という作業は人それぞれなのだから、それが好きな人はやればいい。 バカにするつもりも、否定するつもりもない。 一行一行に丁寧に色をつけたり、 大事だと思う部分を思いっきり大きな字で綴ったり、 読む人の「目」を楽しませる工夫を、どうぞどんどんやればいい。 でも多分、わたしはそういう文章は読まないと思う。 気になってタイトルに惹かれるblogが仮にあっても、そこの空間が、 クリスマスのショーウインドウさながらに飾り付けられた ゴテゴテの色文字や太文字だったら、わたしは多分その空間に 2度3度と足を運ぶことはないと思う。 本当にいい文章なら、飾らなくても伝わるんじゃないか。 それに、人によって感じる部分は様々なのに、 作者の強調したい部分だけを太字にしたり色をつけたりしてしまうと、 必然的にその部分だけが先に目に入るようになり、 結果として、読者本来の感受性を邪魔するような気がしてならない。 わたしは、わたしの文章を、目ではなく心で読んで欲しい。 ただただわたしはこの場所に、自分の気持ちをそのままに綴るから、 だからあなたも先入観のない状態で、白い心で、 自分のペースでわたしの言葉を追ってほしい。 そして、淡々と書かれたその文章から、 あなたなりの感受性であなただけの意味を掴んでほしい。 この、同じ「あの人への手紙」でも、 10人の人が読めば10通りの感想があると思う。 今日の文章だけを取っても、そこから何を感じるか、 10の答えがあると思う。 なのに、最初から 「ここが重要!!」「ここが言いたいことなの!!」と 強調して装飾や着色をしてしまったら、 最初から作者の思い通りの答えしか出てこないんじゃないかと感じる。 これは文章だけではなくて、他の部分にも言えるけれど、 例えばメイクでも服でも話し方でも、ことさらに強調したり、 自分を押し出す人は好きじゃない。 本当にいいものには、「芯」というかある種の強さがあって、 黙っていてもそれは滲み出るし、装飾をしなくてもそれは伝わると思う。 だからわたしは、絶対に文字の装飾はしない。 そのままのわたしで、勝負したい。 |
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